「ひさご寿し」は、昭和25年(1950)より、河原町通りにて暖簾をかけさせていただいております。寿司飯にこだわる関西寿司を中心に先人達の足跡をたどりながら、今も変わりなく商いをさせていただいております事に感謝申し上げます。 |
昭和35年頃の四条河原町上ル近辺の様子(京都新聞社提供
河原町商店街振興組合発行『河原町商店街振興組合四十年史』より) |
当店「ひさご寿し」の創業者である故宇治田正一(1915
- 1982)は和歌山城門の鉄砲方を先祖として二男三女の末子として生まれ、長姉の嫁ぎ先である岸和田欄干橋の畔の料理屋「ひさご」にて修業を始めました。義兄でもある大将の若き頃の修業先、大阪「二葉ずし」の娘フミと昭和15年(1940)3月に結婚。半年余り後の10月に招集礼状、出征、南支に派遣されました。
他方、段々と悪化する戦況下の大阪で銃後の護りの留守家族のフミや姉妹の身を案じた長兄が、自分の居る京都に全員呼び寄せておりました。 |
終戦を迎え帰還した正一は家族、兄弟、姉妹全員が移って来ている京都を新天地として、兄姉、義兄の応援を受けて、フミ(1917
- )と長姉静枝(1899 - 1998)も共に、寿司店「ひさご」を昭和24年(1949)に京都蛸薬師に小さな店舗を借りて開業しました。そして、数か月後の昭和25年(1950)に京都河原町の現地に移転、今日に至っております。 |
「ひさご寿し」初期の外観(1950頃) |
正一:「ひさご寿し」河原町本店にて(1980) |
開店当初は戦後間もない為充分な食材も揃わない中、店頭に秤を設置し、お客様からお預かりした貴重な米約三十九匁を八十五匁のすしに加工するという京都府の条例の下でのスタートでした。開店当初より殆ど変らぬ「盛合わせ寿し」と共に、これも又変わらぬ「名代ちらし寿し」等、素朴ながら素材に拘りを持ち、下拵えに時間をかける関西寿しをベースに代々商いに邁進してまいりました。
この間、昭和44年(1969)に有限会社ひさご、昭和57年(1982)株式会社ひさご、平成10年(1998)に株式会社ひさご寿司に組織変更し、創業者のあと二代目に昭和57年(1982)より長女の婿、宇治田脩盂(1944
- )が、そして平成21年(2009)より三代目として孫である宇治田恵室(1972 - )が就いております。 |
昔ながらの手法で、皆様のお越しをお待ちしております |
今日、多くのものが機械化されていく時代の中で、「ひさご寿し」の全てに昔ながらの手法で、一つひとつにぎり、巻き、抜いて作っております。心の通った手造りのぬくもりを味わっていただくため、時にはお待たせすることもあるかと存じますが、どうかご容赦下さい。 |
「ひさご寿し」の職人たち |
脩盂(ひさご寿し:二代目) |
恵室(ひさご寿し:三代目) |
河原町通りの歩道から硝子越しに見える板場では、注文したお寿司が仕上がる様子を眺めることが出来ます。注意深くご覧いただくと、板場の前に積まれたヌキ板(透明アクリル製の棚板)に巻寿司、箱寿司等が出番を待っているのが分かります。
間口が狭いので判りにくいですが、持ち帰りだけでなく食堂でお召し上がりしていただく事も出来ます。食堂は1階と2階(2020年4月1日より全席禁煙)で計53席となっております。一階奥の小さな窓からは、お隣の日新河原町ビルのお庭を額庭としてご覧下さいませ。四条河原町では貴重な季節感をお裾分けしていただいております。お寿司の出前配達も行なっておりますので、お気軽にお問合せ下さい。 |
「ひさご寿し」河原町本店の玄関 |
「ひさご寿し」河原町本店の2階食堂 |
河原町本店の他に、JR京都伊勢丹店と高島屋京都店の地下売場に店舗を設けております。
デパートにお買い物の際は是非ひさご寿しにお立ち寄りください。 |
「ひさご寿し」JR京都伊勢丹店 |
「ひさご寿し」高島屋京都店 |
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